みなさん、りゅう@kawamuraryuです。
今回は香川県は観音寺市にある銭形砂絵です。ちょっと見にくいかもしれないですけど、、この銭形砂絵は『寛永通宝』って書いてあります。寛永通宝は江戸時代にめちゃ流通しだしたお金なんですって。
でも、なんでこんなところに寛永通宝の砂絵があるんですかね??謎が深まりますね^^さあ、今回はこの謎を少し浅くしていきましょう〜!!イケイケ〜。
銭形砂絵「寛永通宝」がつくられた謎
丸亀藩主の生駒高俊がこの今の観音寺あたりの領内を巡視しに来ることになって地元の人が生駒高俊にたいして歓迎の気持ちをこの「寛永通宝」って書かれた銭形砂絵を作ったんですって。
この砂絵を慌てて一夜で作ったって伝えられてるけど、、実はこれは説なんですって。確定な情報じゃないんですって。いわゆる「変な噂が拡散されたじゃん??」状態なんかもしれないんですって、、、
理由は、ほんまの貨幣の寛永通宝が鋳造されたのは1636年やけど、この砂絵が作られたのは1633年なんですって。
うお〜っ!時系列が合わないんですね?てことは観音寺市あたりに昔、未来人がおったってことなんですかね??
ロマンですね??もしくは宇宙人??もしくはスーパーおじいちゃん?、、想像が膨らみますね^^、、、ってことはロマンなんですよね??
さらに他に違うかもしれない理由が、地元の人が生駒高俊を歓迎する意味で作られた「寛永通宝」って書かれた銭形砂絵なんですけど生駒高俊が巡視した事実の確認取れてないんですって。
そういうのがいろいろと矛盾してて、歴史博士たちは「歓迎の為に銭形砂絵作ったんじゃなくね?」ってなってるそうです。
それで、他に説がいろいろ浮上してて、もっと後の1855年に、「その時の丸亀藩主の京極朗徹に見せるために作ったんじゃね?」説とか、
この砂絵の文字がもともと豊臣氏の家紋の瓢箪紋やったけど幕府の巡検使が来るから「これ徳川幕府に見られたらまずくね?」ってなって「一夜で作り変えんたじゃね?」ってなった説もあるんですけどよく分かってないんですって。
でも、「一夜で作ったんじゃね?」って部分の説は歴史博士たちのなかで結構こだわりがあって推したい感じなんですね^^たぶん。
ほんで、豊臣家の家紋って瓢箪なんですね^^前々から思ってたけど豊臣家ってユニーク一家ですよね^^急に個人の、りゅう@kawamuraryuの意見が炸裂しましたね^^
銭形砂絵「寛永通宝」にまつわるお話
銭形砂絵にはいろいろなお話があるんですって。
銭形を見たものはお金に不自由しないって言い伝えがあったり!!やった〜^^これからの余生が楽しみだぜ!!
あとは太平洋戦争中に米軍が「絶対に軍事機密がこの砂絵の場所に隠されている」ってことで偵察をしまくってたんですって。当時得体の分からない寛永通宝にめっちゃビビってたんですかね^^
確かにやってる事、宇宙人ですもんね^^宇宙人が普段何してるか僕は知らないですけど!!
米軍は結局、終戦まで銭形砂絵の正体がユニークおもしろ不思議砂絵ってことが分かんなかったそうですよ。
あとは旧観音寺市のシンボルマークに使われてたんですって。てか現在の観音寺市は合併された都市なんですね。そう言われて見れば観音寺市は香川県の町の中でやや広めですかね。
そんな気がしてきました。
今の新設された観音寺市のシンボルマークには使われてはいないようです。でも観音寺市といえば銭形砂絵の「寛永通宝」ですね^^
エンディング
この銭形砂絵は夜にライトアップされている期間もあるみたいなので、また時期を事前に調べて夜にも行って見たいですね〜^^
結局、今回の記事は銭形砂絵の「寛永通宝」があるのかは謎が深まるばかりでしたね^^
ではまた。
他にも香川県に行った際は他にもいろいろ記事があるのでぜひチェックして見てくださ〜い。
Twitterで@kawamuraryu 他にもいろいろしているのでぜひみてみてくださいね〜!